2009年4月20日月曜日

引っ越ししました

bloggerにおじゃまして間もないですが、yahoo!ブログに引っ越します。ぜひおいでください。

2009年4月19日日曜日

弊賂弁島はブナの島?


4世紀から12世紀にかけて、北海道にはサハリンからオホーツク文化人が南下していました。かれらは道北から道東の沿岸部に展開していましたが、アイヌの先祖である当時の北海道の人びと(続縄文文化人・擦文文化人)と積極的に交流していた様子はうかがえません。仲良く北海道を分け合っていた、というわけではなかったようです。

さて、このオホーツク文化人と続縄文文化人の関係を具体的に記したとみられるのが、『日本書紀』斉明6年(660)3月条の記事。阿倍比羅夫が船団を率い、一千人ほどの「渡島蝦夷」が駐屯する大河のほとりにやってきます。そして、沖合の「弊賂弁(ヘロベ)島」からやってきては、渡島蝦夷に危害を加えている「粛慎(アシハセ)」を激戦の末破った、という話です。

近年では「粛慎」はオホーツク人、「渡島蝦夷」は続縄文人と考えるのが一般的になりました。問題はこの「弊賂弁島」がどこか、です。そうそうたる研究者がこの謎解きにチャレンジしてきました。サハリン説(白鳥庫吉)、岩木川河口説(津田左右吉)、尻別川河口説(西村真次)、古平の半島説(瀧川政次郎)、石狩川河口説(児玉作左衛門)など、それぞれに自説を展開しています。

北海道の考古学研究者についていえば、オホーツク文化の土器が道央部までは南下していたことがわかっていたので、続縄文人とオホーツク人が接触する前線地帯は道央部であり、記事にある渡島蝦夷が駐屯する大河はおそらく石狩川だろう、と考えてきました。

ただし、最近道南の奥尻島でオホーツク文化の集落が発見され、接触の前線地帯は一気に道南端にまで引き下げられました。現在では、研究者の多くが弊賂弁島は奥尻島と考えているのではないでしょうか。

しかし、そもそも「ヘロベ」とはどのような意味なのでしょう?奥尻島を指す地名と特定できるのでしょうか?ヘロベをアイヌ語とすればどのように解せるのか、これも諸説あります。ただし、最近児玉作左衛門の本を読み直していて、児玉のヘロベ解釈にたいへん衝撃を受けました。

児玉は、ヘロベはペロ・オッ・ペ(ナラの木の多いところ)とし、語尾のペを「ところ」と訳すのは、その場所を生き物とみなすアイヌ語法による、としています(1971『明治前日本人類学・先史学史』)。

奥尻島は全島がブナの純林で覆われており、きわめて特徴的な植生をみせています。島の東海岸から西海岸へ横断したことがある方なら、よくご存知でしょう。実はこのブナも、ナラなどドングリの実を付ける木の仲間で、アイヌ語では「ペロ」なのです。ヘロベ島=ブナの島=奥尻島。さて、みなさんどうおもわれますか?

しかし、このアイデアを何人かのアイヌ語をよくする方々に披露したところ、語尾の「ペ」を「ところ」と解すのは苦しい、全体にアイヌ語的ではない、とニベもない反応が……。残念!でも、もしアイヌ語地名だとしたら、7世紀代のアイヌ語です。語法も多少は変化しているのでは(笑)
写真は、昨年奥尻島で開催された法政大O先生主催の研究会のスナップと、奥尻島の青苗貝塚からみたブナの森。お招きいただきありがとうございました。

『農耕起源の人類史』


いま、大学の考古学専攻の学生さんはどんな本を読んでいるのか。
田舎に引っ込んでいるとなかなかわからないところですが、気になります。
これはまあ、先生が学生に薦めている本が反映されると推測されるわけですが、その点、東海大の北條芳隆先生オススメの本はどれも刺激的で、学生さんはよい影響を受けているのでしょう。

この本は昨年夏の刊行で、先生から教えられてすぐ購入(まだ読了できていないのですが)。
農耕の拡散と人間集団の遺伝子拡散・言語(語族)の広がりの関係をテーマとした非常にスケールの大きな研究書。私としてはとくに、狩猟採集民にとって農耕はどのような意味をもったか、狩猟採集民と農耕民の補完的関係(狩猟と農耕へのそれぞれの特殊化・差異化と交換システムの構築)、といった点に興味が引かれました。

農業という生業は文化として伝播するわけではなく、農耕民の集団が狩猟採集民のなかに入り込むことで始まるのだ、という指摘はエキサイティング。

1月に続いてお招きいただき、6月にも平塚にうかがいます。
北條先生、松本先生、ありがとうございます。

京都大学学術出版会978-4-87698-722-1

緊迫感あふれるフィールドの日々


2月に紋別に出かけた際(佐藤和利さん、お招きありがとうございました)、業界の大先輩である豊原煕司さんからいただいたご本。

豊原さんは、釧路市立博物館のたよりに、故郷の標茶町で土器拾いをして遊んだ子供時代の思い出を書いておられます。これがなんともいえず味わい深い文章で、私の大のお気に入りでした。大好きなその豊原ワールドが1冊の本になったとあって、帰りのバスでむさぼるように読みました。

黒曜石の露頭を探索して白滝周辺の山々を訪ね歩く豊原さんは、しばしばクマに遭遇。その緊迫感あふれるフィールドの日々をつづったエッセイ・紀行です。

同書に収められた「白滝でのクマの聞き取り」は、地元のハンターから聞き取ったクマの生態や、知られざるクマ猟のあれこれを綴ったもの。クマ猟師が高齢化し、また狩ったクマが商品として成立しなくなりつつある現在、記録としてもたいへん貴重なものになるでしょう。

豊原さん、ありがとうございました!

『クマと黒曜石』北海道出版企画センター
978-4-8328-0901-7

アイヌと縄文文化


アイヌの文化を物質文化の側面からみると、鉄の鍋と漆塗りのお椀、平地住居などの特徴を持っていますが、こうした組み合わせが成立したのは13世紀以降。それ以前の物質文化とは大きく異なっています。

そこで13世紀以降の文化をアイヌ文化と呼んでいますが、アイヌが13世紀になって北海道に住み着いたのかといえば、そうではありません。アイヌは形質的に縄文時代に北海道に住んでいた縄文人につながっている、といいます。

では、アイヌの文化のなかに縄文文化の伝統を見いだすことはできないのでしょうか。これがなかなか難しい問題なんですね。

私自身は、東北北部に残るアイヌ語地名と、考古学的な状況証拠から、4世紀以降の北海道の人びとがアイヌ語を用いていたのは確かだとおもっています。縄文時代から使われていたとみて、まずまちがいないでしょう。さらにアイヌのクマ祭りも、縄文時代の祭りに起源があると考えています(これについては5月に出る『季刊東北学』19に書きました)。つまりアイヌ文化の中核は縄文文化にたどり得るという立場なんですが、ではほかにはどうでしょうか。

そんなことを考えていて、これだ!と膝を打ったのが、最近目にした設楽博己さんの論文です(設楽2008「イレズミの起源」『縄文時代の考古学』10、同成社)。

縄文時代にイレズミの風習があったか否か。この問題は、土偶の顔面装飾をめぐって明治時代から盛んに議論が行われてきたのですが、決定的な証拠がありませんでした。そこで設楽さんは、記紀からイレズミの存在が明らかな古墳時代の、イレズミを表現したとされる埴輪の文様を分析・類型化しながら、それを弥生時代の土器に描かれた人物絵画、さらには縄文時代の土偶へと時間を逆にたどって、それらの型式学的な連続性を明らかにしたのです(図は、この論文に掲載されている縄文の土偶から弥生の人物絵画へのイレズミ表現の変遷を示したもの)。縄文時代にイレズミが行われていたのはまちがいないようです。

アイヌの女性が口の周りと腕と手の甲にイレズミをしていたことはよく知られています。史料的にはかつて男性のイレズミも観察されているようですが、どうやらこうしたアイヌの文身も、縄文文化の伝統と考えてよさそうです。

設楽さんによれば、縄文時代には通過儀礼として男女ともイレズミを施していましたが、弥生時代にはその目的が僻邪・威嚇に変化して男だけが施すものとなり、古墳~飛鳥時代には身分の低い人びと、馬飼いや鳥飼いなど動物を扱う人びと、戦士、隼人系の人びと、エミシなど畿外の異人といった、非農民・被支配層が施すものに変化したといいます。う~ん、興味深いですね!

帰り道


日が長くなって、
たまには明るいうちに歩いて帰ることもできるようになりました。
夕方の冷気は、本州でいえばまだまだ真冬のそれです。
でも、このキリッと締まる空気感がいいんですね。

清潔感をもった春、隙のない春、とでもいいましょうか。

竪穴住居の廃用と燃料経済


渡辺仁先生は尊敬する研究者の一人。生前お目にかかれなかったので、昨年、安斎正人先生から渡辺先生のエピソードをいろいろうかがうことができて感激しました。

さて記事のタイトルは、北海道の考古学関係者なら誰でも知っている(はずの)先生の論文名から引用(1984『北方文化研究』16所収)。竪穴住居が平地住居に移行する契機と条件は何か。考古学をかじった人間なら誰でも考える(はずの)疑問についてズバリ答えています。

居住性に劣る竪穴住居が受容されていたのは燃料節約のためであり、平地住居の受容は燃料生産の増大を前提としている。そこには伐採具としての鉄器の普及がかかわっていた。ただし燃料増産に対応できるのは上位の階層であり、平地住居化は段階的に進行しただろう、という視点はいかにも先生らしいですね。

なぜこんな話を引っ張り出してきたかというと、発掘調査でみつかるアイヌの平地住居(チセ)の炉が非常に長大(縦長)なのはなぜか、という疑問について考えるため。アイヌ文化に先行する古代擦文文化の竪穴住居の炉は小さい。この炉の違いは何に由来するのか。

平地住居では竪穴住居とは比較にならないほど大量の燃料を消費します。北海道アイヌは、長さ60cmの薪を高さ150cm、幅180cmに積み上げたものを1単位とし、旭川ではこれを1年に20単位を燃やしたそうです。厳冬期には一晩で2背負い分の薪を燃やしたとも。一方、樺太アイヌが冬の家としていた竪穴住居では、冬でもランプの火皿の熱だけで十分暖かかったというのですから、その差は歴然。炉の大きさの違いは、燃やされる薪の量の違いを反映しているのでしょう。

しかし、燃料を大量に燃やすためだけなら、炉が縦長に長大化する必要はありません。中世や近世前半くらいまでは、倒木にあまり手をかけず長いまま燃やしていたため、チセの炉は縦長だったのではないか、短く切りそろえた薪を使用するようになったのは比較的新しい時代なのでは、というのが私の素朴な推理です。

図は鈴木牧之『秋山紀行』にみる秋山郷の住居。新潟と長野の県境にある秘境・秋山郷の住居は、18世紀頃まではアイヌのチセと同じカヤ葺き・カヤ壁・土間の住居でしたが、炉には倒木が無造作に横たえられています。チセにもこうした風景を想定していいのではないでしょうか。

さて、それほど大量の燃料を燃やせば、カヤ壁の家とはいえさすがに暖かかったかといえば、さにあらず。厳冬期のチセで宿泊体験をした建築家の宇佐見智和子さんによれば、零下20℃ほどになると、火を燃やせば燃やすほど熱気は強い上昇気流となって冷たい外気を吸引し、室温が零下になって、背中に強い冷気流が襲ってきたそうです(1999「アイヌの伝統民家『チセ』」『SOLAR CAT』37)。
宇佐見さんによれば、1年中炉の火を絶やさないでいれば、土間が蓄熱体となって冬期もそこそこ暖かだったといいますが、室温が20℃になることなど到底ありえない住環境です。冬でも家の中でアイスやビールを楽しんでいる現代の北海道人には、とてもたえられそうにないですねえ。