4世紀から12世紀にかけて、北海道にはサハリンからオホーツク文化人が南下していました。かれらは道北から道東の沿岸部に展開していましたが、アイヌの先祖である当時の北海道の人びと(続縄文文化人・擦文文化人)と積極的に交流していた様子はうかがえません。仲良く北海道を分け合っていた、というわけではなかったようです。
さて、このオホーツク文化人と続縄文文化人の関係を具体的に記したとみられるのが、『日本書紀』斉明6年(660)3月条の記事。阿倍比羅夫が船団を率い、一千人ほどの「渡島蝦夷」が駐屯する大河のほとりにやってきます。そして、沖合の「弊賂弁(ヘロベ)島」からやってきては、渡島蝦夷に危害を加えている「粛慎(アシハセ)」を激戦の末破った、という話です。
近年では「粛慎」はオホーツク人、「渡島蝦夷」は続縄文人と考えるのが一般的になりました。問題はこの「弊賂弁島」がどこか、です。そうそうたる研究者がこの謎解きにチャレンジしてきました。サハリン説(白鳥庫吉)、岩木川河口説(津田左右吉)、尻別川河口説(西村真次)、古平の半島説(瀧川政次郎)、石狩川河口説(児玉作左衛門)など、それぞれに自説を展開しています。
北海道の考古学研究者についていえば、オホーツク文化の土器が道央部までは南下していたことがわかっていたので、続縄文人とオホーツク人が接触する前線地帯は道央部であり、記事にある渡島蝦夷が駐屯する大河はおそらく石狩川だろう、と考えてきました。
ただし、最近道南の奥尻島でオホーツク文化の集落が発見され、接触の前線地帯は一気に道南端にまで引き下げられました。現在では、研究者の多くが弊賂弁島は奥尻島と考えているのではないでしょうか。
しかし、そもそも「ヘロベ」とはどのような意味なのでしょう?奥尻島を指す地名と特定できるのでしょうか?ヘロベをアイヌ語とすればどのように解せるのか、これも諸説あります。ただし、最近児玉作左衛門の本を読み直していて、児玉のヘロベ解釈にたいへん衝撃を受けました。
児玉は、ヘロベはペロ・オッ・ペ(ナラの木の多いところ)とし、語尾のペを「ところ」と訳すのは、その場所を生き物とみなすアイヌ語法による、としています(1971『明治前日本人類学・先史学史』)。
奥尻島は全島がブナの純林で覆われており、きわめて特徴的な植生をみせています。島の東海岸から西海岸へ横断したことがある方なら、よくご存知でしょう。実はこのブナも、ナラなどドングリの実を付ける木の仲間で、アイヌ語では「ペロ」なのです。ヘロベ島=ブナの島=奥尻島。さて、みなさんどうおもわれますか?
しかし、このアイデアを何人かのアイヌ語をよくする方々に披露したところ、語尾の「ペ」を「ところ」と解すのは苦しい、全体にアイヌ語的ではない、とニベもない反応が……。残念!でも、もしアイヌ語地名だとしたら、7世紀代のアイヌ語です。語法も多少は変化しているのでは(笑)
写真は、昨年奥尻島で開催された法政大O先生主催の研究会のスナップと、奥尻島の青苗貝塚からみたブナの森。お招きいただきありがとうございました。
さて、このオホーツク文化人と続縄文文化人の関係を具体的に記したとみられるのが、『日本書紀』斉明6年(660)3月条の記事。阿倍比羅夫が船団を率い、一千人ほどの「渡島蝦夷」が駐屯する大河のほとりにやってきます。そして、沖合の「弊賂弁(ヘロベ)島」からやってきては、渡島蝦夷に危害を加えている「粛慎(アシハセ)」を激戦の末破った、という話です。
近年では「粛慎」はオホーツク人、「渡島蝦夷」は続縄文人と考えるのが一般的になりました。問題はこの「弊賂弁島」がどこか、です。そうそうたる研究者がこの謎解きにチャレンジしてきました。サハリン説(白鳥庫吉)、岩木川河口説(津田左右吉)、尻別川河口説(西村真次)、古平の半島説(瀧川政次郎)、石狩川河口説(児玉作左衛門)など、それぞれに自説を展開しています。
北海道の考古学研究者についていえば、オホーツク文化の土器が道央部までは南下していたことがわかっていたので、続縄文人とオホーツク人が接触する前線地帯は道央部であり、記事にある渡島蝦夷が駐屯する大河はおそらく石狩川だろう、と考えてきました。
ただし、最近道南の奥尻島でオホーツク文化の集落が発見され、接触の前線地帯は一気に道南端にまで引き下げられました。現在では、研究者の多くが弊賂弁島は奥尻島と考えているのではないでしょうか。
しかし、そもそも「ヘロベ」とはどのような意味なのでしょう?奥尻島を指す地名と特定できるのでしょうか?ヘロベをアイヌ語とすればどのように解せるのか、これも諸説あります。ただし、最近児玉作左衛門の本を読み直していて、児玉のヘロベ解釈にたいへん衝撃を受けました。
児玉は、ヘロベはペロ・オッ・ペ(ナラの木の多いところ)とし、語尾のペを「ところ」と訳すのは、その場所を生き物とみなすアイヌ語法による、としています(1971『明治前日本人類学・先史学史』)。
奥尻島は全島がブナの純林で覆われており、きわめて特徴的な植生をみせています。島の東海岸から西海岸へ横断したことがある方なら、よくご存知でしょう。実はこのブナも、ナラなどドングリの実を付ける木の仲間で、アイヌ語では「ペロ」なのです。ヘロベ島=ブナの島=奥尻島。さて、みなさんどうおもわれますか?
しかし、このアイデアを何人かのアイヌ語をよくする方々に披露したところ、語尾の「ペ」を「ところ」と解すのは苦しい、全体にアイヌ語的ではない、とニベもない反応が……。残念!でも、もしアイヌ語地名だとしたら、7世紀代のアイヌ語です。語法も多少は変化しているのでは(笑)
写真は、昨年奥尻島で開催された法政大O先生主催の研究会のスナップと、奥尻島の青苗貝塚からみたブナの森。お招きいただきありがとうございました。
面白い研究者の方達の発想ですね!失礼いたしました。何故、現存しているアイヌ語に訳すのでしょうか。北海道と言えばアイヌ語?先入観の塊ではないのでしょうか。元々縄文人が暮らしていた土地にアイヌ人が流入した。縄文人が使っていた固有名詞や言葉をアイヌ人が使ていたとしても不思議ではないかと思います。誰も縄文人の言葉など知る人はいません。アイヌ語と思っても仕方のない事、死人に口なし状態ですね。意外と琉球、鹿児島、青森の方言を参考としたら何か見えてくるかもと思います。先入観止めたほうが良いですね!
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