2009年4月19日日曜日

竪穴住居の廃用と燃料経済


渡辺仁先生は尊敬する研究者の一人。生前お目にかかれなかったので、昨年、安斎正人先生から渡辺先生のエピソードをいろいろうかがうことができて感激しました。

さて記事のタイトルは、北海道の考古学関係者なら誰でも知っている(はずの)先生の論文名から引用(1984『北方文化研究』16所収)。竪穴住居が平地住居に移行する契機と条件は何か。考古学をかじった人間なら誰でも考える(はずの)疑問についてズバリ答えています。

居住性に劣る竪穴住居が受容されていたのは燃料節約のためであり、平地住居の受容は燃料生産の増大を前提としている。そこには伐採具としての鉄器の普及がかかわっていた。ただし燃料増産に対応できるのは上位の階層であり、平地住居化は段階的に進行しただろう、という視点はいかにも先生らしいですね。

なぜこんな話を引っ張り出してきたかというと、発掘調査でみつかるアイヌの平地住居(チセ)の炉が非常に長大(縦長)なのはなぜか、という疑問について考えるため。アイヌ文化に先行する古代擦文文化の竪穴住居の炉は小さい。この炉の違いは何に由来するのか。

平地住居では竪穴住居とは比較にならないほど大量の燃料を消費します。北海道アイヌは、長さ60cmの薪を高さ150cm、幅180cmに積み上げたものを1単位とし、旭川ではこれを1年に20単位を燃やしたそうです。厳冬期には一晩で2背負い分の薪を燃やしたとも。一方、樺太アイヌが冬の家としていた竪穴住居では、冬でもランプの火皿の熱だけで十分暖かかったというのですから、その差は歴然。炉の大きさの違いは、燃やされる薪の量の違いを反映しているのでしょう。

しかし、燃料を大量に燃やすためだけなら、炉が縦長に長大化する必要はありません。中世や近世前半くらいまでは、倒木にあまり手をかけず長いまま燃やしていたため、チセの炉は縦長だったのではないか、短く切りそろえた薪を使用するようになったのは比較的新しい時代なのでは、というのが私の素朴な推理です。

図は鈴木牧之『秋山紀行』にみる秋山郷の住居。新潟と長野の県境にある秘境・秋山郷の住居は、18世紀頃まではアイヌのチセと同じカヤ葺き・カヤ壁・土間の住居でしたが、炉には倒木が無造作に横たえられています。チセにもこうした風景を想定していいのではないでしょうか。

さて、それほど大量の燃料を燃やせば、カヤ壁の家とはいえさすがに暖かかったかといえば、さにあらず。厳冬期のチセで宿泊体験をした建築家の宇佐見智和子さんによれば、零下20℃ほどになると、火を燃やせば燃やすほど熱気は強い上昇気流となって冷たい外気を吸引し、室温が零下になって、背中に強い冷気流が襲ってきたそうです(1999「アイヌの伝統民家『チセ』」『SOLAR CAT』37)。
宇佐見さんによれば、1年中炉の火を絶やさないでいれば、土間が蓄熱体となって冬期もそこそこ暖かだったといいますが、室温が20℃になることなど到底ありえない住環境です。冬でも家の中でアイスやビールを楽しんでいる現代の北海道人には、とてもたえられそうにないですねえ。

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